受験のシーズンになると「神頼み」だの「ゲンかつぎ」だのといったものが急にクローズアップされますが、日常的には「神頼みなど意味がない、効果はない」「宗教に走るなんて理解できない」と思っている方が日本では多いのではないでしょうか。
自分も割とそういう考え方だったのですが、一方で、そもそもなぜ人は神頼みするのかを考えてみると、そこにはそれなりの「理」があるようにも思います。今日は京都の町並みを観てきたので、その理について書いておきます。
人生いろいろと窮地に立たされることがあり、だいたいそういうときに「神様」に対するニーズが高まって、窮地を抜けるとニーズがなくなります。
ここで、窮地といっても色々あるわけですが、現代社会における窮地の大半は「自らの行動」なり「他者からの支援」なりによって、「神様」の助けを借りることなく、回避可能です。
「神頼みなど意味がない」と言う場合、暗黙のうちに「そういうレベルの窮地」を想定しているものと思います。そして「そういうレベルの窮地」しか経験しないで済む人は、一生「神頼みなど意味がない」と考えるでしょう。
しかし、そもそも「そういうレベルの窮地」に「神様」という概念を持ち出すこと自体が、間違いであって、それでは「神様」の必要性について検討したことにはなりません。
昔で言えば、戦争だの圧政だの差別だの飢饉だので、自分の周りの人が何の理由もなくどんどん殺されるとか、長い時間をかけて作った作物が天候不良で全く収穫できず、そのために子供が餓死するとか。現代で言えば、考えられないくらいの借金を負うとか、難病にかかるとか。本来「普通に考えて、本当に為すすべがないレベルの窮地」を想定してはじめて「神様」の必要性が検討されなければなりません(だって神様なんですから)。
「神様」を必要とする人、神様にすがる人は、祈ればなんとかなると思っているから祈っているのではなく、「もう祈る以外に、手がない」から祈っているのです。理不尽な状況に悩み、それを納得する理由を探しているのです。
昔はかなり大勢の人が、少なからず「祈る以外にない窮地」に陥っていたはずです。大勢の市民が神様に「祈り」それでも叶わなければ「神様の思し召し」ということにして納得するしかなかったからこそ、多くの神社仏閣が出来、今でも世の中に数多く残っているのではないでしょうか。
要するに「神頼み」の本質は真の窮地における「救い」である、というのが自分の考える神頼みの理です。
世の中実際には「為すすべがない」と認識することすらできなくて悩んでいる人もいっぱいいます。
現代においても「医者に見放された人」「借金で首が回らない火」「愛する人や家族に先立たれた人」といった「為すすべないレベル」の高い人でさえ、その状況の責を自分に求めて、悩み続けている場合が少なくないと思いますが、そういう場合には、神様の存在を否定して悩み続けるよりも、神様にその責をおしつけ、自分には「為すすべがない」「祈るしかない」と思うようにしたほうが、きっと気持ちが楽になるんじゃないかと思います。
反対に、今宗教という名の事業者に大枚を投じたり、神頼み商品に貴重な資金を投じたり(ネタでキットカットとか買うのは別)している人の中には、為すすべが「ある」のに為すすべが「ない」と自分で思いこんでいる人もきっといると思います。
そういう意味では「ないものねだり」に宗教にいく前に、まず本当に為すすべがないと言えるほど自分はベストを尽くしているのかを、考えてみたほうがよいと思います。
Posted at 2008.02.02 20:37 in 日常